広島・長崎に原爆が落とされてから、今年で75年が経つ。

今年の広島市「平和宣言」では、広く市民社会の「連帯」と次世代への「継続」がキーワードとしてあげられた。長い時間が経過しようとも、被爆体験を継承し、核廃絶・恒久平和を実現していく責任は、その時々の世代へ引き継がれていかなければならない。

……とはいうものの、そのバトンを継ぐ私たちは、直接の体験者でもなければ、教科書で学んだこと以上に原爆を知っているわけでもない。

「自分と空間的にも時間的にも離れている『被爆体験』を、どうしても遠く感じてしまう」

そのような思いを抱きながら今年も8月を迎えた方は多いのではないだろうか。

今回、私がインタビューさせていただいたのは、東京都国立市の育成プロジェクトを経て「原爆体験伝承者」として活動、また、前回お話を伺った岡山さんと同じく「NPO法人ノーモアヒバクシャ・記憶遺産を継承する会」に所属する中尾詩織さん。中尾さんに「被爆体験が伝わるってどういうことなんだろう?」をテーマに、お話を伺った。

三瓶 湧大
福島浜通りに生まれ、東日本大震災を経験する。大学進学をきっかけに上京し、大学の中で復興支援団体に所属するなどして、震災自体や人と人とのかかわりについて思いを巡らせてきた。昨年からは原爆体験について学びはじめ、「非被爆者への継承」などに関心を持つようになる。震災や原爆と言った「想像力を超えてくるような存在たち」は私たちが「生きること」にどのように影響を与えてくるのか。他者の経験を伺う事を通して、文章を作り上げていく事を通して、考え続けていく。

中尾詩織さんのあゆみ

中尾詩織さんは長崎で生まれ育ち、大学進学を機に上京してきた。東京ではじめて8月9日を迎えた時、「東京の人って8月9日に黙とうしないんだ」と、長崎と東京の意識の隔たりに驚いたという。

原爆について、長崎にいたころは「毎年その季節になると平和学習が行われたり……当たり前すぎてあまり気にとめていなかった」「被爆体験を聞いても、そこまでなにか思っていなかったのが正直なところですね」と中尾さんは話す。自らの視点が変わるきっかけとなる出来事が起こる。

黙とうをしない、原爆の話があがらない……そんな光景を目の当たりにし、「何かしないと忘れ去られるんじゃないか」と中尾さんが考えはじめたころ、被爆者であり、自らの被爆体験の手記を中尾さんに渡すなどしてくれていたお祖父さんが亡くなられる。

今やらないと被爆者の話を聞けなくなってしまうかもしれない。

「被爆三世というのがひとつのアイデンティティになったというと大袈裟ですが……。当事者に近い私が、考えるよりやらなきゃだな、と」

当時の心境を、中尾さんはこう語る。中尾さんにとって今まで「当たり前」であった原爆だが、実は「忘れ去られるんじゃないか」と危惧を抱くほど、世の中では「当たり前」ではなかったのである。その気づきが中尾さんを突き動かしたのだ。

「遠い話」を「近くの話」に

中尾さんの行う「伝承活動」では、被爆者の体験や思いをありのまま伝えることを重視しつつ、聞き手が理解しやすいように適宜情報の補足も行なっている。

イメージしやすいよう紙芝居を作ったり、若い人に関心を持ってもらうため長崎の観光地を導入に用いたり……これは「歴史の話として捉えられやすい被爆体験“自分ごと”にしてもらうため」の取り組みの1つである。

もうひとつ、中尾さんが大切にしていることは「体験を語ってくれた被爆者のひととなり」を伝えることだ。そのために、被爆をした前後の人生や、被爆者と会話する中で感じた一面も聞き手に話すようにしている、と中尾さんは話す。

「被爆者と呼ばれる人は特別な存在ではなくて『75年前に、たまたま長崎にいた普通の人』。そのことを知らないとどうしても遠い歴史の話のように感じてしまう。被爆後、どのようなあゆみを経て今があるのか。そういうことを知れたら、自分との共通点が見つかって距離が縮むんじゃないかと。自分自身もそうだったので」

被爆体験を単に「1945年の長崎での出来事」としてではなく、「一人一人の被爆者」を通して伝えること。「被爆者は確かに想像を絶する体験を乗り越えてこられたが、自分と同じく、今をあゆむ普通の人だと感じてほしい」と中尾さんは話す。

被爆体験を知る、というとなんとなく身構えてしまう自分がいる。それは原爆に関することを聞く=凄惨な出来事について聞くという構図を、お話を聞く前から想像してしまうからだ。そうではなく、「(被爆体験も含めて)その人の人生について知りたい」という姿勢で臨めば、聞こえてくること、感じることも変わってくるだろう。

原爆や被爆体験を自らに近づけていくには、平和や凄惨さのような大枠から取り掛かるのではない。「被爆者と自分」という関係性を作り上げていくことが大切な一歩なのだと、私は気がつくことができた。ほんの少しの視点の変化が、体験の受け取り方を変えていくのだ。

被爆者の方と「一緒につくりあげる」

「ひと」を通して被爆体験に触れること。中尾さんは今、NPO団体「ノーモアヒバクシャ」で「話を聞いたことがない人が、被爆者に出会う場所を作る」ための活動に重きを置いている。

そのひとつに、「茶話会」と呼ばれるものがある。茶話会では被爆者と話をしながら、被爆体験のサマリーを一緒に書き上げて、ネットに公開するという活動がおこなわれている。

「被爆体験を咀嚼する、読み解く過程を経ないとサマリーを作るのは難しい。被爆者と一緒に、その方が一番伝えたいことってどこなんだろうかとか、実際に見聞き話して、被爆者に対する理解だったり接点を見つける機会だったりにしてほしい」

中尾さんの話を聞いていて、「被爆体験を知る」ことから「被爆者への理解や接点」へと話の力点が変化したことが、私は非常に印象的だった。「体験が伝わる」というと一見聞き手は受動的な存在のように思えるが、そうではない。実際に出会って「一対一」の関係性を被爆者と一緒につくりあげていくという、能動的な存在であるといえるだろう。

「被爆者の方々がなぜ今、私たちに伝えようと語るんだろう、後世に残そうと活動されているんだろう、という思いの部分。そこに触れて今度は自分たち自身の未来についても考えられるといいのかなと」

被爆者の思いに触れるというのは、ただ体験を聞くだけでは成し得ない。自らも継承の場に参加しているという意識を持ち、何を感じたか、何を思ったのかを大切に掬い上げていくことだ。例えば、「被爆者が言葉に詰まった瞬間やしゃべれなかった間」といったことは、やはり実際に場にいないとわからないと中尾さんは話す。

会話のなかには、間、表情、身振り、話しぶりの変化……など話されている内容のほかにも多くのメッセージが含まれている。テキストを読むだけでは捉えきれない気づきを、自ら場に参加していくことで得ることができるだろう。単なる情報の交換にとどまらない会話の空間を、被爆者とつくっていくこと。その積み重ねの果てに、被爆体験がジブンゴトになるきっかけがあるのかもしれない。

今、体験が伝わるということ

関係性をつくっていくこと、場を共有することで、豊かな発見があることが見えてきた。

しかしコロナ渦、そして被爆者の方の高齢化という状況は、その場の生成を難しくしている。それでも中尾さんは、例えば「インターネットと継承活動を掛け算することに、被爆体験のない世代が継承活動に関わるメリットがある」とし、「これからの継承の形を被爆者と一緒につくっていける」チャンスだと捉えているという。

「こんなことを話していると、なんとなく高尚なことをやっているように言われるんですけど」と笑う中尾さん。

友だちに原爆について色々調べてるんだとを話したとき、全く同じことを言われた私もつられて笑ってしまった。その後、中尾さんは「些細なことでも、ひとつの形だなって思ってて。いろんな人に活動に参加してほしい、とすごく思います」と続ける。

核兵器がいまだに存在する世界で、その脅威はいつか今を生きる私たちに降りかかってくるかもしれない。ふとそう考えたときに、中尾さんの「些細なことでも」知ってほしいという言葉は胸に刺さる。被爆者の体験や思いに触れたことがあるかないかでは、ふとした時にする判断の内容が変わってくるだろう。

「その場でその瞬間、多くの人に伝わることも大事かもしれない。でもそれ(被爆者と話した経験など)がいつどこで誰のきっかけとなるかは分からないし、自分もそうだったので。一対一だとしても、その1人ににきちんと伝わっていれば価値がある。だから、やっぱりだんだんと、ですね」

被爆体験を知ることができたとしても、ジブンゴトになっていくには時間がかかるかもしれない。それでも、「被爆者に出会い、関係性をつくりあげながら、まずは体験が伝わること」で、いつか「きっかけ」を得たときに自らの行動は変わるだろう。自身の上京時のエピソードを踏まえながら、中尾さんはそう話す。

遠く感じる話を、自らの近くに。そしていつか、ジブンゴトに。

「いつ芽吹くかわからない種を植えてらっしゃるんだなって思いました」と、インタビューに同行していた編集者の方がつぶやいた。花を咲かせるために、私もいまできることを少しでもやっていきたい。そう感じることができた、中尾詩織さんとの出会いだった。